2020年年間リーディング「魂の処方箋」

毎年、恒例となりつつある年間リーディング「魂の処方箋」。

毎年、どの層にフォーカスするか変えているのですが、今年はどうしようかと決めきれずにいましたが、やっと今日、決定!

どなたをリーディングするかで、ずいぶんテイストも違いますけれど、

2020年は、ソウル、スピリットレベルにフォーカスし、それを現実でテーマを明確にし、現実化する原動力に繋がれるよう大切にリーディングします。

「こういうことに気をつけて」という感じではなく、生きていると、それはもういろんなことがありますが、どんなことがあっても、自分として生きるために、自分を生きることを愉しめるようにという祈りをこめて行います。

90分 25,000円(税込) Skypeセッションも同額とします。

 

ちなみに、私の年間のメインテーマをリーディングしたところ

「自分を輝かせることは何なのか、何をしている時が最も輝けるのか、それを最優先して生きること」

というメッセージが来ました。

いつもそうかもしれませんが、2020年はより一層、自分が輝くことを大切にしたいと思います。

※11月6日からお受けします。2020年1月末まで行います。

※ 通常のスピリチャル心理カウンセリングも行っております。

※2020年年3月21日に魔女会を東京にて、開催します。

至高の人生

不快なことを避けようとするのは、本来の生き残るための能力でもあるが、至高の人生を生きるとき、あるポイントで、シフトするタイミングが、人生の中で何度か(何度も)やってくる。

その時に、いつものパターンや今の自分が認知している(わかったと思っていること)だけで何とかシフトしようとしても上手くいかない。

どんな魂にとっても、それは等しく訪れるが、特に、たくさんの経験を積み、成長してきた魂にとって、認知していない未知へ踏み出すことは、多次元的な領域で大切である。

もはやそれによって使命が果たされるようなことまで起こる。

今まで知っているまあまあな喜びにとどまるようなことをしてしまってはいないか、自分に問いかけてみよ。

果たしてそれは、まあまあなのか。まあまあならまだよいが、それが苦しみにはなっていないか。不快ではないのか。

魂の求めは、わかりやすく至高の喜びにしか、たどりつかない。魂は、明らかなエクスタシーに向かっている。

 

まあまあでお茶を濁している者たちは、それがよいのだと必死で自分で証明しようと、アファメーションに余念がない。不快であることを振り切るように。

一方、知らない世界を発見した者たちは、どこまで行っても続くチャレンジにも子供のような好奇心と軽やかさで踏み出す。自分への信頼と共に。そこで、果てしない喜びを見つけることで至高の人生をクリエイトすることにフォーカスする。それは自ずと分かち合うという喜びの拡大と一体感が共存する世界で生きるのだ。

 

こだわりが執着になるとき

こだわりが人生を進めてくれるとき。

それは、自分自身たるとき。自分の中心が放たれるときに、それは人生を気持ちよく流れに乗っている感覚や充実感、満足感が高まり、かつ、自分を尊い存在として感じられる。故に、自分の外側に存在する世界に対して、感謝が湧いてくる。その時、必ずしも、思い通りの結果がついて来なくても、その起こる事象には、左右されない。

一方、その「こだわり」が執着になるのは、自分以外の他者が現れる時。それは「支配」の意識が現れるからである。思い通りにしようとする。それは、「私を認めて欲しい」「私を愛して欲しい」「私に注目して欲しい」などの欠乏意識、貧困意識がそうさせる。故にその執着たる「こだわり」が自分を苦しめていく。

しかし、執着が悪ではない。苦しむことから学べることは、果てしなくある。

支配の意識が悪ではない。思い通りにならないことで学べることが果てしなくある。

それでも、執着、支配に傾いていることを認められないときが、最も先が見えないような心許なさ、振り回されているような危うさに翻弄される。

実のところ、その心許なさ、危うさに翻弄された先にも自分が待っているのだ。自分という、全てと繋がった全体が待っている。

どうあれ、突き抜けていく。

明らかな近道は、自分につながり、全ての執着を手放すことだが、それだけが道ではない。

でも覚えておいて欲しいのは、遠回りが崇高ではないことも真実だということ。すぐ近くに、振り向いただけで広がる世界がある。

それは、自分の中心をひたすら感じて、内側にある世界にこだわることであったりする。

これは言葉であって言葉ではない。

 

体験したいことを体験するために

*体験したいことを体験するために(得たいことではない。)
現れること、それに反応する自分をシンプルに味わい尽くすことは、自身の神聖性に触れ、体現することである。

*「こだわり」が人生を進めてくれるとき、人生を混乱させるとき。
こだわりそのものは、自分の中心を感じることであり、執着ではない。

*不快なことを避けようとしなくていい。どちらも味わう。そして、そのどちらもおなじところにたどり着くことを知るだろう。

*DoとBeの両方を愉しめる。在り方を極めることは、何もしないことではない。

*思考に頼り、わかろうろうとすることで、知っている世界から分離する。わからないままでよい。すると、説明することのできない知っていることを体験できる。

考えない=知っている世界と繋がる

 

 

私得意の付箋メモのような。(講演会など、これよりもっと短いキーワードを書いて、小さな付箋を持参)これで完結してしまうのです。
ここをもっと説明してほしいということや御質問などありましたら、遠慮なくどうぞ!どうぞお待ちしております。

分離から統合へ

今、この瞬間にすべてがある。

いつかではなく、明日でもなく、後ででもなく、今なのです。

今、完璧になろうとせず、今のすべてで充分だという視点から逃げないで欲しいのです。

そして、今に留まろうとせずに(留まろうという意識は、過去に居ようとする意識です)すべては一瞬であって、すべてが変わり、変化していくことを愉しむのです。そこにしがみつかずに、その瞬間の今を全体として体験してください。今にすべてがあり、それは現れていないものもすべて含みます。現れるままに。それは恐ろしくもなんともないことです。恐れは、自分が作り出したものだということは何度伝えても伝えすぎるということがないほどです。外側に振り回されることに、逃げないでください。誰かのせいにし続けないでください。それではどこにもたどり着かないと知っている自分を無視しないでください。

シンプルに自分が高次の意識で居られることを選び続けてください。それが波動を上げること、本来の波動で存在することです。それは正しく在ることではありません。感謝や幸福感に満ちることを選ぶのです。状況がどうあっても、です。状況がタフなとき、それは希望へ向かってくださいという明確なサインです。困難もまた同じです。その状況の中で、あなたがどんな幸福を創造するか、あなたの中心が求めているのです。

そのざわめきを無視してはいけません。あなたの神さまからのウエイクアップコールなのですから。心がざわめくのは、あなたの現実(肉体)と高次の意識(精神・神意識)が統合しようとしている時です。ハートのチャクラは、あなたの個としての存在と、あなたが全体ある存在をつなぐ大切な部分です。そこにフタをすると、分裂していくのです。分裂ではなく、統合を選んでください。更に言うと、ハートのチャクラだけが重要ではなく、すべてが同じだけ大切で、どこが一番ではなく、互いになくてはならない、切り離すことができないひとつなのです。

アンバランスや分離があるときに、再バランスするために、何かにフォーカスすることはあっても、何かだけが大事で、何かがあることによって不具合があるわけではないのです。排除するということは、分離を促進してしまいます。分離は苦しみです。統合は、赤ちゃんの笑顔や寝顔のような調和です。

あなたの中にあるそれを見つけてください。あなたの中にすべてあるということの意味を体験してください。あなたの内側からすべてが生み出され、すべての中の一部であるという真実に触れてください。あなたがそれを知ればしるほどに、あなたの未熟だった好意のような感覚が、愛しみ(慈しみ)の感覚へと変容していきます。

 

 

 

あたためて生み出される種

朝水久美子TVで、ゲストで来ていただきました小松奈保子さんの「あなたの音楽と出会う絵」

この絵を描く前に出て来たイメージは、鷲とか鷹とか力強いイメージだったそうなのですが、今回は、この世界観が今の私に「必要」と感じたそうです。

そうです!

強さより、この繊細な癒しの世界こそ、今の私、いいえ、いついかなる時も私に必要で、土台でした。もちろん今も。私自身、この大きな変化の中で(いつも変化の中みたいですけれど)、今、

ああ、私ずっとこうして来たな

と思い出すことがものすごーーーく必要でした。

いつも自分をあたためてきた。大切に、傷ついた時も、悲しい時も、がっかりした時も。もちろん嬉しい時も。

そして、天に輝くたくさんの星は、私を助けて来た存在たち。そこへの感謝が溢れていると言われた時に、そうなんです!!と言いたい気持ちが爆発しそうになりました。

だって、私は自分の思うように生きて来て、そんな私をずっと助けて、導いてくれたのだもの。
ひとりじゃない。そう思えて今があります。
いつも「誰にどう感謝したらいいのかしら?」と思うほどなのです。私ひとりの力では、到底、乗り越えてこれなかった。

後ろに描かれている険しく、とても寒い山々。そこに居たのだもの。

でも、そこに居たからこそ、今の暖かさがより一層、はっきり感じられ、また感謝が溢れてくるのです。

 

今の私は、強くて揺るぎないイメージになりましたが、自分としては、小さい頃のとても臆病で、繊細で、泣き虫なまま。引っ込み思案ですし、本当に怖がり。
自分を励まして、励まして、あたためて、あたためて、やっとこさ、生きて来たように感じます。そして、今は、自分以外にも、私を励まし、あたためてくれる人たちに恵まれて、感謝しても、感謝しても、しきれないほどです。

自分を信じて、出会う人を信じて、これからもたくさんの種を生み出していきたいと思いました。

 

それを見事に描いてくれた奈保子さん。これからもたくさんの人の心の大切な世界を描いて、癒していかれることでしょう。幸せ。

朝水久美子TV vol.4

今回のゲストは、アーティストの小松奈保子さん。

「才能を使い続けることは、なぜ大切なのか。」について深ーく話します。

彼女の才能を使った「あなたの音楽と出会う絵」

依頼者の好きな曲から繋がり、その人の世界観を絵とお手紙で綴る。

私もお願いしました。

私が選んだ曲は、ポールアンカの「My Way」名曲中の名曲ですが、この曲との出会い、この絵から感じたいことなど、感涙の思いで話しました。

私のホーム。

私が私であることの核。

 

才能のスイッチのありかを刺激することが、私のお役目と自覚しています。

多くの人が「才能」というと、「みんなに認めてもらえるようなスゴいこと」という視点で捉えているような気がします。

「自分には遠いもの」「誰かスゴい人だけが持っているもの」と感じ、自分のこととしてリアリティが薄いのだと思います。

実は、なんてことないことの中にそれがあり、現実的に反映されたとき、華やかに見えたり、揺るぎないものとして映るかもしれませんが、自分にとってそれは気づかないほど当たり前のことや自分の受け入れ難いところに潜んでいます。

才能は、自分だけではなく、ともに生きるためにとてもステキな光の粒です。

 

私は、私の才能を使うことによって、彼女のように、才能を生き生きと使うきかっけになれたら、それはそれは至福なのです。

 

 

ぜひご覧くださいませ

限界のムコウ

台風19号が猛威を振るいました。日本のかなり広範囲で被害があり、亡くなられた方もいらっしゃいました。心からご冥福をお祈りいたします。
また、多くの方が被災し、復旧作業に従事されている方も含めて、お見舞い申しあげます。

そういう私も東京に住み、当初、関東地方に大きな被害が出るのではないかという予想でした。その時期、仙台出張が予定されていたために、台風より先に仙台へ向かいました。気持ちは、私だけ仙台に避難するような、東京には夫や甥、そして、それぞれ一人暮らしをしている息子たちも居るので、残していくような心境でした。実際、最初に上陸したのは関東地方で、メディアも関東地方の台風の様子を報道していましたので、荒川近く(しかも海抜が0.1メートルしかない場所)に住む息子と多摩川の近くに住む息子のことは、気が気ではなかったです。祈るしかないですね。彼らの職場も休みになり、食べ物など準備して、建物ごと水没しない限り、できることはやったと言っていました。夫と甥が住んでいる場所は、なんとか大丈夫そうだと、何度も電話で話しました。何しろ私は堅牢なホテルの上階に居るので、そこに居る限りは死ぬことはない。でも、仙台に午前中に到着し、午後1時過ぎに仙台市から最初の緊急速報のアラートが鳴った。その後も、20時過ぎ、23時過ぎ、夜中の24時少し前に合計4回のアラートが鳴り響いた。過ぎてみれば、宮城県や福島県も大きな被害があった。

翌日は、新幹線が動き出そうであろう時間に夫も仙台に向かう予定だったが、昼過ぎても運転再開の見通しは立っていないとのこと。万が一のために納品の宝石は、私が持参し、彼が来られない時の準備もしてたけど。それは仕事のことであって。

「自然ことだから、もちろん、来れない時は、仕方ないね。
でも、今夜はあなたの腕の中で眠れますように」

なんて、いつものように結婚33年目とは思えないスイートなメッセージを送って、個人セッションへ向かったのでした。

なんと予め取った新幹線が動き出し、座席指定もそのままに仙台に来れたそうです。すごいラッキー!おかげさまで、いつもの私の至福の眠りの時間が過ごせました。

こんなに仲がいいと、ケンカしたことがないんですか?と、よく聞かれますが、
ケンカしますよ。普段は呆れるほど仲良しですけど、ケンカもします。

仙台で、ステキな光景に遭遇しました。
女性が結婚する相手をお父さんに紹介する場面です。お相手は再婚らしく、彼自身の言葉で、そのことも誠意をもってお話ししていました。お父様は、彼に結婚するにあたって、大切な現実的なことを話していました。その話が聞こえてしまっているので、私も結婚生活を33年も続けているけど、そこ全然できてないよー、なんて自分に突っ込んだりしていました。生活のこと、経済的なこと、将来生まれてくるであろうこどものこと。お父さんの愛ですね。そして、お父さんはおっしゃいました。

「お母さんが反対しても、お父さんは賛成するよ。お父さんが賛成すれば、お母さんも大丈夫だから。」

全身でほっとしたように深々と頭を下げる彼。

「ありがとうございます!」

ここから話が和んで、お嬢さんも、彼女からみた彼のことをいろいろ話してくれます。そこでお父さん、

「ケンカはするのか?」と聞きました。

「うん、するよ」というお嬢さん。

「そうか。よかった。

私たち仲いいのでケンカしません、という人がいるけど、お父さんはそういうの信用しないんだ。

そうか、ケンカもするのか。」

もう私までジーン。。。。。

 

ケンカする必要のないほど、仲がいいカップルもいると思うけれど、お父さんのおっしゃっている意味をすごく共感します。

私たち夫婦も、普段は呆れるほど仲がいいけれど、個人として、家族として、変化するときに、ぶつかりあいます。変化、違いが生まれて、摩擦になる。さっきまでそれで摩擦にならなかったのに、変化によって、生まれる摩擦。そんなとき、距離を取れば、摩擦(痛み)を感じずにいられるけど、例え、痛みを感じたとしても、私は、大切なことに近づきたい。だから摩擦=ぶつかるのだけど、そこで、ケンカになるのだけど、個人として、成長させてもらえるような感覚があります。家族としても。

いつからか、そのケンカもYouTubeで中継したいくらい深い(笑)なんだかケンカしているのだけど、相手を褒めているナゾのケンカです。

その度に、この人はすごいなぁ、私は深く愛されているんだなぁ、私も深く愛しているんだなぁ、そして、自分自身のことも深く信じているんだなぁ、と気づきを新たにすることになります。結果として、ですけどね。

ああ、もうダメかもしれない。もうこれ以上無理。

その限界を見るということは、もうすで次のステージが用意されているんです。

絶望とか、限界を感じることは、もう次の世界が見えるところに来ているのです。絶望の、限界のムコウへ。何度も、何度でも。

絶望のムコウは、絶望ではない。

その先へ。

祈るけど 人柱にならない

関東に住んでいる息子は、ふたりとも川沿いで心配したけど、
もう最後はやっぱり「なるようになる。」「神のみぞ知るの世界だね」なんて話した。

リアル「天気の子」じゃん、なんて話も。

サバイバル能力は、きっとある!その感覚に従って。

いたずらに心配することもないけれど、どこまでも自然には、謙虚であること。

それが子供たちに伝えた大事なことのひとつ。

 

 

映画「天気の子」を観た時は、座席から立ち上がれないほどだった。感想もシェアできない。声を出すと、涙の方が先に出た。

 

昨夜は、台風情報を見ながら、

「もう人柱になるのは終わりだよ」なんて、夫が言った。

 

人柱にはならないけど、祈りはやめないよ。

その祈りが何にもならなくても。

祈らずにはいられないもの。

 

 

誰かの犠牲のうえに何かが助かるなんて時代は終わった。

最初から誰かの犠牲で助かった訳じゃなかったのかもしれない。

誰しも子供の頃に魔法を持っていて、

今日はおやつを我慢したから、パパとママがケンカしなかった みたいな。

 

何の因果関係もないのに、大好きな人のために自分を捧げる。

 

それは大好きな人を喜ばせることだと疑いもせずに。

 

 

そうじゃない!!!

自分を犠牲にしないで!!!

 

 

その声が聴こえるだろうか。

受けとめて、笑顔で抱きしめられることを赦せるだろうか。

 

あなたを大丈夫にしたいのではなく、

あなたの大丈夫になりたいという人の声は

果たして誰の声だろうか。

 

 

サバイバーズギルトを考えていたら精子が出てきた

台風が近づいて、この自然のパワーに圧倒される。こういうとき、自分のスタンスがクリアになる。生きることに執着あると思っているし、できる限りの想定をして行動するのだけど、どこか、自然に対してどうにかしようとなど、さっぱり思っていない自分に気づかされた。

だって、お天気のことだもの。

もちろん、被害に遭う人がいませんようにと祈るけれど、人間がどうにかすることでもない気がするのだ。

天災地変は、どこか地球のホメオスタシスでもあるのだと思えてならない。人間の関係ないところでの動きだってあろうかと思うし、人間の都合で環境に与えてしまっていることだってあろうだろうし。それがいけないとかではなくて、ただそうなんじゃない?って感じるわけ。その恩恵を受けていて、自然のバランスが崩れた時だけ、人間だけ影響を受けませんようになんて思っちゃうけど、変だなぁとも思う。外界で生きている動物は、ただ生きるでしょ。そして、死ぬかもしれない。

事前に対処できるのは、動物もそうかもしれない。ネットの情報じゃないと思うけどね☆

だけど、生き残ってしまったことに対して感じるサバイバーズギルトは、人間だけなのではないか。ギルト。人間だけだよなぁ。

私は死ぬのを待っている訳じゃないけれど、いつも死ぬ準備をしているみたいなところがあるの。

かっこつければ、今日の日を懸命に生きるだけなんだけど、それも言葉にするとなんだかかっこいいけど、実際にはどうだろう。私の中にあるサバイバーズギルトがそうさせる部分がある。

そんなの必要ないのにと頭では思う。でも、どこかにある。ずっと。

そういうのも、人間っぽくていいんだと思う。たくさんの人のそれに出会って、自分のそれにも優しくなれたように思う。

ただただ、生きられることを愉しんで、

この世を去る時にやりきったー、と万歳するような心境で在ろうと今日も生きる。

 

でもさー、人間の中にも、動物っぽいところがあると思うのよ。

たくさんの精子の中の1匹が、「ゴメン!オレだけ生きてしまって」、なんて思わないよね。

みんなの中の1匹に見えるけど、そうではなくて、その存在のために存在するみんながいるみたな。自然界と同じ。

選ばれしものみたいな感覚になるのは、人間だからなのだと思う。

たくさんの中の1匹であって、同時に他を生かすための全体という存在でもある。

卵子は、さらにシビアに存在している。ただただ強く生きている。その生命力たるや。すごいのよ。君臨という感じ。

自分の中の動物的な生命力をもう一度思い出すようなそんな時なのかも。