エロ神様降臨♡

その人のもつエロティシズムは、魅力であり、問答無用の個性が現れる部分。

普段は、隠していても、そのエネルギーは、甘美な生命力の放つ存在感として人を惹きつけます。

人によって異なり、それは地球上にある花の種類のように多様です。

日本に限らず、エロティックなことは、隠されることとして扱われたりしますが、無縁の人がいないのも私たちが生命体である所以。

 

幼少期にすでに興味関心がある領域ですが、そんな気配を親が禁じたり、戒めたりして、自分の中で「ソレハイケナイコト」となったりします。

個人セッションでは、性のテーマに触れることは珍しくないのですが、親の一言で、今まで楽しめていたセックスが、全く楽しめなくなるばかりか体が拒絶してしまってできなくなったという方もいらっしゃいました。

性のことは、もちろん動物的な部分もありますが、人間のそれは動物的側面だけではなく、自分自身のコアな部分、自尊心などと密接で、かつ、神聖性とも切り離せないのです。

 

冒頭の絵は、スピリチャル心理学を受講してくださたutaさんが、親から封じられたエロティックな絵のことを話してくれて、

「封じられたことは、それを破ることで癒される」という話をして、

ぜひあなたの描く私のエロ神様の絵を描いて欲しいとお願いしました。

 

豊かなボディにミステリアスな髪と巨大なタコを纏い、紫色の瞳でウインクし、赤いエネルギーを放つ姿。

let’s enjoy!!
とっても楽しみながら
パートナーへ愛を注いで
相手からも愛をいただいて
たっぷりの愛の循環♡エクスタシー♡

そして
これから生まれてくる魂と

生きている全ての人達へ
この循環を届けます♡
みんなエクスタシーにな〜れ♡

というメッセージをいただきました。

utaさんの勇気に感謝します。

封じられ、解き放ち、安心感を感じて人は心底癒されるのです。

エロ神様は、誰の中にも存在します♡

 

2019年11月のメッセージ

どうしてこんな世界になってしまったの?

 

少なからずネガティブに思えることは、シフトのチャンスです。

それは、社会で起こっていようが、個人的なことであろうが、どちらも目に入る、耳にする、体験する、どれも等しくあなたにとって大切なことなのです。

自分の中にある慈愛を隠さずに現わすとき。もしくは、自分の慈しみの感覚を育てるときです。

慈愛が溢れるのは、その本質を見抜いているからです。わけがわからないときには、そうなりません。だからといって闇雲に愛すれば良いということでもありません。なんでもかんでも、わかるよ、わかるよ、なんて流されないでください。

大切なのは、本質を見抜く目を、本質を感じる感覚を、本質を理解する心を大切にすることです。

一朝一夕ではなく、それは日々を大切に生きること

目の前に現れることに心を開くことで、ひらかれていきます。

無知の知は、知ることへの出発点です。

何か受け入れられないことが起こった時は、「自分はそのことについての本質を知らないのだ」と、ただ受け入れることで叡智が流れ込んできます。

本質を知れば知るほどに謙虚になり、しなやかな強さを中心に感じることでしょう。この強さが、真の強さです。慈愛に満ちた強さを自分の中に感じられたら、新しい自分のセットアップ完了です。これは、2020年の1月いっぱいまでに意識すると、スムーズでしょう。

 

 

至高の人生

不快なことを避けようとするのは、本来の生き残るための能力でもあるが、至高の人生を生きるとき、あるポイントで、シフトするタイミングが、人生の中で何度か(何度も)やってくる。

その時に、いつものパターンや今の自分が認知している(わかったと思っていること)だけで何とかシフトしようとしても上手くいかない。

どんな魂にとっても、それは等しく訪れるが、特に、たくさんの経験を積み、成長してきた魂にとって、認知していない未知へ踏み出すことは、多次元的な領域で大切である。

もはやそれによって使命が果たされるようなことまで起こる。

今まで知っているまあまあな喜びにとどまるようなことをしてしまってはいないか、自分に問いかけてみよ。

果たしてそれは、まあまあなのか。まあまあならまだよいが、それが苦しみにはなっていないか。不快ではないのか。

魂の求めは、わかりやすく至高の喜びにしか、たどりつかない。魂は、明らかなエクスタシーに向かっている。

 

まあまあでお茶を濁している者たちは、それがよいのだと必死で自分で証明しようと、アファメーションに余念がない。不快であることを振り切るように。

一方、知らない世界を発見した者たちは、どこまで行っても続くチャレンジにも子供のような好奇心と軽やかさで踏み出す。自分への信頼と共に。そこで、果てしない喜びを見つけることで至高の人生をクリエイトすることにフォーカスする。それは自ずと分かち合うという喜びの拡大と一体感が共存する世界で生きるのだ。

 

こだわりが執着になるとき

こだわりが人生を進めてくれるとき。

それは、自分自身たるとき。自分の中心が放たれるときに、それは人生を気持ちよく流れに乗っている感覚や充実感、満足感が高まり、かつ、自分を尊い存在として感じられる。故に、自分の外側に存在する世界に対して、感謝が湧いてくる。その時、必ずしも、思い通りの結果がついて来なくても、その起こる事象には、左右されない。

一方、その「こだわり」が執着になるのは、自分以外の他者が現れる時。それは「支配」の意識が現れるからである。思い通りにしようとする。それは、「私を認めて欲しい」「私を愛して欲しい」「私に注目して欲しい」などの欠乏意識、貧困意識がそうさせる。故にその執着たる「こだわり」が自分を苦しめていく。

しかし、執着が悪ではない。苦しむことから学べることは、果てしなくある。

支配の意識が悪ではない。思い通りにならないことで学べることが果てしなくある。

それでも、執着、支配に傾いていることを認められないときが、最も先が見えないような心許なさ、振り回されているような危うさに翻弄される。

実のところ、その心許なさ、危うさに翻弄された先にも自分が待っているのだ。自分という、全てと繋がった全体が待っている。

どうあれ、突き抜けていく。

明らかな近道は、自分につながり、全ての執着を手放すことだが、それだけが道ではない。

でも覚えておいて欲しいのは、遠回りが崇高ではないことも真実だということ。すぐ近くに、振り向いただけで広がる世界がある。

それは、自分の中心をひたすら感じて、内側にある世界にこだわることであったりする。

これは言葉であって言葉ではない。

 

分離から統合へ

今、この瞬間にすべてがある。

いつかではなく、明日でもなく、後ででもなく、今なのです。

今、完璧になろうとせず、今のすべてで充分だという視点から逃げないで欲しいのです。

そして、今に留まろうとせずに(留まろうという意識は、過去に居ようとする意識です)すべては一瞬であって、すべてが変わり、変化していくことを愉しむのです。そこにしがみつかずに、その瞬間の今を全体として体験してください。今にすべてがあり、それは現れていないものもすべて含みます。現れるままに。それは恐ろしくもなんともないことです。恐れは、自分が作り出したものだということは何度伝えても伝えすぎるということがないほどです。外側に振り回されることに、逃げないでください。誰かのせいにし続けないでください。それではどこにもたどり着かないと知っている自分を無視しないでください。

シンプルに自分が高次の意識で居られることを選び続けてください。それが波動を上げること、本来の波動で存在することです。それは正しく在ることではありません。感謝や幸福感に満ちることを選ぶのです。状況がどうあっても、です。状況がタフなとき、それは希望へ向かってくださいという明確なサインです。困難もまた同じです。その状況の中で、あなたがどんな幸福を創造するか、あなたの中心が求めているのです。

そのざわめきを無視してはいけません。あなたの神さまからのウエイクアップコールなのですから。心がざわめくのは、あなたの現実(肉体)と高次の意識(精神・神意識)が統合しようとしている時です。ハートのチャクラは、あなたの個としての存在と、あなたが全体ある存在をつなぐ大切な部分です。そこにフタをすると、分裂していくのです。分裂ではなく、統合を選んでください。更に言うと、ハートのチャクラだけが重要ではなく、すべてが同じだけ大切で、どこが一番ではなく、互いになくてはならない、切り離すことができないひとつなのです。

アンバランスや分離があるときに、再バランスするために、何かにフォーカスすることはあっても、何かだけが大事で、何かがあることによって不具合があるわけではないのです。排除するということは、分離を促進してしまいます。分離は苦しみです。統合は、赤ちゃんの笑顔や寝顔のような調和です。

あなたの中にあるそれを見つけてください。あなたの中にすべてあるということの意味を体験してください。あなたの内側からすべてが生み出され、すべての中の一部であるという真実に触れてください。あなたがそれを知ればしるほどに、あなたの未熟だった好意のような感覚が、愛しみ(慈しみ)の感覚へと変容していきます。

 

 

 

祈るけど 人柱にならない

関東に住んでいる息子は、ふたりとも川沿いで心配したけど、
もう最後はやっぱり「なるようになる。」「神のみぞ知るの世界だね」なんて話した。

リアル「天気の子」じゃん、なんて話も。

サバイバル能力は、きっとある!その感覚に従って。

いたずらに心配することもないけれど、どこまでも自然には、謙虚であること。

それが子供たちに伝えた大事なことのひとつ。

 

 

映画「天気の子」を観た時は、座席から立ち上がれないほどだった。感想もシェアできない。声を出すと、涙の方が先に出た。

 

昨夜は、台風情報を見ながら、

「もう人柱になるのは終わりだよ」なんて、夫が言った。

 

人柱にはならないけど、祈りはやめないよ。

その祈りが何にもならなくても。

祈らずにはいられないもの。

 

 

誰かの犠牲のうえに何かが助かるなんて時代は終わった。

最初から誰かの犠牲で助かった訳じゃなかったのかもしれない。

誰しも子供の頃に魔法を持っていて、

今日はおやつを我慢したから、パパとママがケンカしなかった みたいな。

 

何の因果関係もないのに、大好きな人のために自分を捧げる。

 

それは大好きな人を喜ばせることだと疑いもせずに。

 

 

そうじゃない!!!

自分を犠牲にしないで!!!

 

 

その声が聴こえるだろうか。

受けとめて、笑顔で抱きしめられることを赦せるだろうか。

 

あなたを大丈夫にしたいのではなく、

あなたの大丈夫になりたいという人の声は

果たして誰の声だろうか。

 

 

2019年10月のメッセージ

全体を見渡して、どこにも引っかかりがない、前向きで、前進の流れ。スムーズに進んで行くとき。

このよい流れに乗っていきましょう。

心が満ちてくるような、愛情溢れるようなことが引き出され、それにより、様々な心惹かれるチャンスも舞い込みます。心が満たされるようなことには、ぜひ勇気を出して、一歩踏み出しましょう。積極的に心が満たされるような関係性を味わうことも大切です。恋愛関係、夫婦関係などの関係性をより一層高められる運気もあります。自分の内側の愛情も育ち、その満たされる感度が上がります。親密な関わりを実践することで更に加速します。

また直観力が冴え、啓示を受けたり、内なる導きが明らかに受け取れるでしょう。

同時に、自分の中にある豊かさ、才能、愛情などで貢献したいという気持ちも高まり、それを求められることも増えていきます。自分の実力を等身大に認め、力を発揮していきましょう。同時に、どんどん拡大へ、冒険へと向かっていく意欲も高まります。持ち前の安定感につながり、進みましょう。

動きの多くなっていく流れです。自分の中の神聖な領域、精神性を大切にすることを心がけることで、その動きは、自分の理想と連動していきます。

自分の中でストンと気持ちがひとつになる感覚を大切に、ワクワクしながら躍動感ある時を過ごしましょう。

 

満たす

自身を満たす

充分に満たす

溢れるほどに満たすことを最優先に

常に溢れさせることのみに意識を向ける

この内から湧き上がるものの源につながる

 

そしてただ その創造の中に

 

 

 

旗を揚げよ

旗を掲げよ。自分は何者で、何のために存在しているのか。

その旗は、人生を進行させる。意志は、人生を動かす。

風を活かす。そのために意識の整理は役に立つ。相反する感情エネルギーの真ん中に居れば、その力はもっとも強く働く。

水は、その進行を進める上で、潤滑剤のような役割を果たす。滑りを良くしたり、軽やかにしたり、滞らせたりする。感情の質が、それを決定づける。

地は土台である。支えである。親がそれを象徴する。親との学びをするのは、土台に関する重要なことなのはそのためである。それは更に自分自身との関係性でもある。

土のエネルギーは、不安定であれば、常に整えることを意識し、安定化すれば、自動的に整理整頓は行われる。

感情を感じることも同じである。そうすれば、風のエネルギーを活かすことができる。準備を整え、火のエネルギーをレベルアップせよ。

 

愛について話そう 3

今日は、愛について話そう。

創造の源であるその源泉に繋がることは、感情に繋がることと根本的に同じだ。なぜその人が好きなのか?なぜそれをしたいのか?と考えても仕方がないことにとてもよく似ている。何らかの意志が働いているとも言えるが、なぜと考えても仕方がないようなことなのだ。こみ上げるものがあって生まれ、無から有が生まれる瞬間である。無から溢れる泉からすべては生まれる。それを「ある」と認識すれば完了するようなことである。認識しなければ、在っても無いのだから。すでに在るものだ。すでに在るものを認識し、それを愉しむことが地球での愉しみなのだ。「在る」という前提で生きてみよ。様々なことは認識され、「在る」を体験できる。

すべては在るのだから、何を体験したいのか、ということが大切になってこようかと思う。だからこそ、感情と繋がることが重要なのだ。何を体験したいかわかれば、認識する領域を設定することが出来る。そして在ることを発見し、愉しみ、味わうのだ。発見した後は、すべてプレゼントである。贈り物を喜び、愉しむことだ。