こだわりが執着になるとき

こだわりが人生を進めてくれるとき。

それは、自分自身たるとき。自分の中心が放たれるときに、それは人生を気持ちよく流れに乗っている感覚や充実感、満足感が高まり、かつ、自分を尊い存在として感じられる。故に、自分の外側に存在する世界に対して、感謝が湧いてくる。その時、必ずしも、思い通りの結果がついて来なくても、その起こる事象には、左右されない。

一方、その「こだわり」が執着になるのは、自分以外の他者が現れる時。それは「支配」の意識が現れるからである。思い通りにしようとする。それは、「私を認めて欲しい」「私を愛して欲しい」「私に注目して欲しい」などの欠乏意識、貧困意識がそうさせる。故にその執着たる「こだわり」が自分を苦しめていく。

しかし、執着が悪ではない。苦しむことから学べることは、果てしなくある。

支配の意識が悪ではない。思い通りにならないことで学べることが果てしなくある。

それでも、執着、支配に傾いていることを認められないときが、最も先が見えないような心許なさ、振り回されているような危うさに翻弄される。

実のところ、その心許なさ、危うさに翻弄された先にも自分が待っているのだ。自分という、全てと繋がった全体が待っている。

どうあれ、突き抜けていく。

明らかな近道は、自分につながり、全ての執着を手放すことだが、それだけが道ではない。

でも覚えておいて欲しいのは、遠回りが崇高ではないことも真実だということ。すぐ近くに、振り向いただけで広がる世界がある。

それは、自分の中心をひたすら感じて、内側にある世界にこだわることであったりする。

これは言葉であって言葉ではない。

 

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