映画『閉鎖病棟』観ました。
小説にも、映画にも、その世界に入り込んでしまうので、この作品を観終わった後、なんとも言えない感覚になってしまった。すばらしいとか、陳腐なひとことで終わらせたくない感覚。
死刑囚、死刑執行など、元職の環境にいたこともあって、最初から引き込まれる。
検察庁職員時代、私個人は、死刑執行立会どころか、変死体の検死立会すらなかったけれど、上司が執行立会に行ったり、執行指揮書の発行などは、ごく間近で感じることがあった。ゴムサンダルに腰紐、手錠をかけられ、警務官に付き添われて調室に向かう姿を見かけるのは、珍しいことではなかった。当時は、エレベーターがない建物だったから尚更だろう。様々な事件があり、様々な手続きがあり、様々な人生があるのだと思った。
法務に関わることを、育児期間をはさんで、12年も携わらせてもらったのは、今思うと、しみじみ私に必要だったと思う。
心の世界に飛び込み、15年。開業当初は、「臨床心理カウンセリング」をかかげていたこともあり、恋愛や人間関係についてばかりではなく、閉鎖病棟に入院していたというクライアントさんたちのカウンセリングを経験させてもらえた。個人で行なっていたため、相談内容は多岐にわたっていた。自分で予約できる人は、統合失調症の診断を受けている方も予約を受けた。確かに、幻聴、幻覚、感情のコントロールができないなどの症状があったのだけど、関われば関わるほど、
病気とはなんだろう?
異常というのはなんだろう?
と自問自答した。
健康というのは、何なんだ?
正常というのは、何なんだ?
その葛藤や苦しみを抱えて生きる人たちの懸命な姿は、私の魂を震わせるには充分過ぎるほどだった。
この映画でも、様々な症状を持つ入院患者が描かれていた。
けして、犯罪を正当化するつもりもないけれど、狂っているのは、果たして閉鎖病棟の中にいる人なのだろうか。
まだ十代の娘が自分の新しい夫に乱暴されいるのを知りながら、娘を守るどころか、娘に嫉妬を向け出て行けという母。
例えるに、性的な暴力を受けた娘、娘に寝取られたと嫉妬する母、
今の職業上、そのどちらの相談を受けることもある。塀から出てきた犯罪者のカウンセリングをしたこともある。その時に、物事の善悪を説いて聞かせても何の意味もない。
起こってしまったこと、やってしまったことを無かったことにするのではなく、それでも朝が来ることを信じて、目の前の人に向き合う。それしかできないのだと悟ったことを思い出す。自分が誰かの人生の救いになれるかもしれないなんて、そんな浅はかな自分が静かに消えていった。ただ祈るような気持ちで、その苦しみを共有し、そして、夜明けをしっかり見据える。犯罪や特異な環境、境遇の人だけではなく、一見、普通に見える、でも、かけがえのない人生を必死で生きている尊いひとりとして。
誰の心の中にもある優しさがあたたかいまま表現されますように
と、私の心は叫ぶような祈りに包まれた。
それはきっと誰かに届くから
そう思えない時でも、朝が来る
それをこの映画は強く教えてくれる。